tractatus

思考の垂れ流し

はろー ぐっばい

ブログの更新がだいぶ間引き運転になるくらい、身も心も忙しない日々を送っていた。言語の経由、おひさしぶり。


漠然としたもやもやを文字に起こして思考を整理するということ、これが元来、わたしの精神安定剤として大いに貢献してくれていた。それはこの約1年という空白の期間も今も変わっていない。変わっていないから、いまこうして久しぶりに総括の駄文を紡いでいる。変わっていないけれどほんとうに忙しくて、それでいてパソコンを開いてキーボードをカタカタする余裕もないほどに精神は壊れていて、眠りに就けない夜を、慌ただしくて苦しい昼を、なんとか薬でごまかしながら人間に擬態して過ごしていた。


腕を通した布の袖口を指でつかむ季節よりずっと前、アブラゼミが元気な頃からずっと苦しかった。
自己を再定義できるくらいの絶対的な何かを得たいと、カフェラテの水面に映る難しい顔をした自分と向き合って本気で頭を悩ませてた時期みたいな、ああいう苦しみの方がずっといいのになあ、なんて思いながら、端末に届く得体の知れない人間からのメッセージや汚い欲に塗れた人間の顔をじっと見つめる。苦悶と絶望の渦の中で実習をこなす、そんな日常。
悲しみの事情はかつて秘密だった。訳のわからないものに振り回された1年だった。どうしてこうも平気な顔で裏切りを働ける人間がいるのだろうか。終ぞわたしにはわからなかった。裏切りは御免なのよ。何もわからなくてめちゃくちゃな行動に出ることが度々あって、それでも心配の声をかけてくれたり、気晴らしに遊びに誘い出してくれたり、真剣に相談にのってくれたり、あたたかい周りに随分と助けてもらった。ありがとうをありがとう以上の表現で伝えたい、ほんとうに感謝しかないの、それがなかったらわたしは今この世にいない。不器用なわたしの、そういうお話。


日常がくるしいからお勉強どころじゃなかった、音楽どころじゃなかった。言い訳かもしれない。
体重がどんどん減って存在そのものが消えそうになって、ドクターに入院を勧められて、でも大学の性質上休む訳にはいかないから5時起き生活を続けて教授にも何回もお世話になって、ふらふら倒れたり階段から落ちて意識不明になったり、ほんとうに今に至るまでよく生きてこられたなあってぼや~っと思う。

お勉強、がんばったけどみんながんばってる世界線。正直なところ結果と相対評価に満足できない試験もあったけど確実に「上」が存在する以上、やり方を間違えたなあ~ぐえ~って4年分の反省と後悔でほぼ毎日泣いてしまう。やれるだけのことはやった。あとはどうなるか、結果はまだ神様しか知らない。最後の切り札、免罪符は使えないもの。



自分の身は自分で守らなきゃね、でもどうしたらいいかわかんない。わかんないからばかみたいに何回も強くなろうとしては転んで挫けてを繰り返してる。いいのかなこれで、これが最適解なのかな。

倫理と不条理の間で、言いたくても言えないことが空中分解する。破片を深夜枠から「こんにちは」させて「さよなら」させる、蒼すぎる夜に溶かしてしまおうかってね。滑稽なタイムラインができあがっては消える。
正気の沙汰じゃない「正解」が蔓延る世界を今日も寝ぼけ眼で見つめる朝が、ほらまたくる。

思惟

終わらせなくては、と思っていることがある。
いつか来る終わりに備えよう、と思う。



■1. 苦
何かを理解したつもりになって結局のところ何も解っていない、その可能性に触れず満を持して他人に「理解」をぶつけ対話を進めようとすることが如何に軋轢を生むか、当人は知る由もあるまい。


■2. 廻
日々いろんなことに頭を悩まされる。課題は妥協の産物として山積していく。
環境が目まぐるしく変わるこの時期、毎年頭の中で総括のようなことをする。人が違えど場が違えど、過去は想起させられて何らかの形で中途半端に消化される。不完全な清算がまたいつか記憶を呼び寄せる無限ループ、贖罪が足りない。


■3. 学
間に合わせの最低限を積み重ねても最終的な必要十分量には達しない、だからこそ不確かな成功に臨むために準備だけは着実にしておきたかった。土台がぐらぐらしていたら上に幾らモノを積み上げようとしても、崩壊する危険性が積み上げの有効性を遥かに上回って何をするにも臆病になる。どっしり構えるにはそれなりの根拠が必要だった、今更どうしろって言うの。
生きている限りにおいて最善を尽くす。これより他ないでしょうね。


■4. 焉
何もかもをかなぐり捨てて生活を終わりにしたいと思うことは幾度となくあるけれど、詰まるところ総ての時間がかけがえなくてわたしには勿体ない毎日だった。そう思うに十分な程たくさんの人にお世話になったし、色んなことを経験した。
我儘かもしれない、でもやっぱり結びは笑って過ごしたいなあなんて、曖昧に言の葉を紡ぐ。



過去は廻り、春へと帰す。

備忘録:総括

今回は感情をつらつらと記述する回とします。

難しいです。色んなことがとっても難しいです。
何もわからなくて、何をどうしたらいいのかわからないことの連続です。

あの時どうしたらよかったのかなとか、ああすればよかったのかなとか、そういう後悔の繰り返しで毎日がくるしいです。

くるしくて感情に蓋をして自分を取り繕うことはもうしたくないです。でも性格上どうしても完全には辞められません。どうしたらいいんでしょうね。

何かに期待しても罪でしょうか、何にも期待しなくても罪でしょうか。

人間はこわいです。親しかった人がとんでもない行動に出る人だったり、逆にこわい人だと思っていたら実はとても優しい人だったり。
俗に言われる「多様性」と上手に付き合うことは難しいし、他人と接する以上、往々にして生きているだけで価値観を押し付けることになるので何が正答かなんてわかりっこありません。

それでも平穏な営みを望む以上、無色透明でどんな色に染まりながらも確たる信念を以ってして人間と向き合っていく弛まない努力は欠かせないでしょうね。

この20+n年間、成長できたこともあるので悪いことばっかりではありません。良いこともいっぱいありました。
けれど、こういったくるしみとあとどれくらい付き合っていくことになるのかなと、ふと思いました。


果たして。

備忘録:虚無的実存

休みとは言えないカタチだけの休みが音も立てずにのっそりとやってきた。


感情が爆発したり唐突に無が訪れたりと心はいつも忙しない。予測不能なものに毎回頭を悩ませているのだからそれはそう。

上手く生きられない。考えれば考えるほど抜け出せなくなくなる。水たまりだと思っていたものが実は底なし沼でした、みたいな。
精神の介在が招かれざる困難を招く。何もできないのに何かできないかと足掻く。



前置き:倫理に正解なんてないし何が良いか悪いかの推定材料となり得る言説をここに並べる気はさらさらない

会話の中で相手の内面に潜む深刻な倫理的矛盾を見つけてしまったとき、何も言えなくなった。というのも、それと同時に何も言えなくなってしまった自己の内面にもまた重大かつ致命的な矛盾が生まれてしまった。

その矛盾について考えることが何になる?真理を知ろうとしたところで何になる?ちっぽけな存在でしかないのに壮大なスケールを持つ哲学的な課題に挑んで、果たして何がわかる?
何もわからないのに脳は考えることを辞めてはくれない。



汚い毒と歪んだ倫理が終わりのない正義を巡って争う。
人間が自分で作っておきながら手に負えなくなってしまったもので溢れかえっている日常の中で、自分が存在したいと思える空間を求めて無力な両手が今日も空を切った。

夢と時間と現実と

楽しいことをしても、辛いことを思い出しても、音楽を聴いても、物思いに耽っても、何をしてもしなくても時間は過ぎるし過去は嵩む。


未知との遭遇に相変わらず人類は狼狽えるし、不満や不安の向ける先を見つけ攻撃する者やそれを諭す者、倫理を問う者は後を絶たないし、何が良くて何が悪いかなんてわたしにはわからない。わからないけれど、夢みたいな現実味のないこのふわふわした時間が確かに現実であることは、いつか訪れる日常の帰還の兆しに思い知らされるんだろうなと思う。


制限されている自由と認められている自由が交錯して自分がどこに立っているのかわからなくなる。
気の向くままにふらふら過ごしたい自分とそうであってはいけないと思う自分が互いに互いを牽制し合った結果、何もできずにただ生産性のない日々を送るだけのガラクタと化していた。愚行を繰り返しては不安になり、思考を重ねては猫になりたいと戯言を言うの。
逃避行を繰り返すような「日常」の先に一体何が待ち受けていて、何を見据えたら先を見通せるようになるんだろう。


月が変わって季節が移ろい行く。わからないことだらけのこの世界で、今日もまた眠り続けたいと言いながらそれでも前に進んで行く。


夢現

よき思念を、優しさを

健全な精神が緩やかに回帰するように、と願う。
いつ何時も身近なしあわせに気付けるくらいの心の余裕をもって生活したい、と思う。


耐え難い不安と精神的苦痛、出処不明の悲愴感に苛まれながらすぐそこまで迫っている限界とにらめっこしている、つもりだった。実際はもうとっくのとうに限界の域に足を踏み入れていて、自分の状態も正確に把握できていないのに解決を急いでは多少の回復を得、すぐにまた元通りといった具合にネガとポジのイタチごっこを繰り返していた。情緒不安定である。
何が嫌だとか何が苦しいだとかそういう具体性のある事柄に悩む段階は過ぎていて、そもそも何を苦としているのか、何を懸念しているのか、問題の所在があまり明らかではない。これまでの苦悩の蓄積が漠然とした不安感や徒労感となって限界を引き連れてやってきた。

倫理と不条理の間に幾度となく最適解を探してきた。毎日いろんな色に染まって、それでいて自分自身は無色透明なまま、まあこんなもんかなって割り切りつつ見つけた最適解にピントを合わせてお話する。それでもやっぱりまだ、黒の混じった最適解にも簡単に順応してしまう自分が嫌でたまらない。どうしたってこういう汚い感情と決別できないのか、くるしい。
受容し受容されが良しとされるはずの世界で、欺瞞や悪意に曝される場面があまりにも多い。非現実的な理想論を唱えてもそれは綺麗事に過ぎないけれど、現実に基づいた理想論は誰しもが持って然るべきものだと思う。わたしが苦しさを覚えたままでもいいから、それでも他の誰かには苦しんで欲しくない。だからせめて、誰かがわたしと関わっている間は相手にとって自分が優しい存在でありたいと願って接し続けている。


迎える明日が今日より少しでも優しくありますように。

過渡期

すべてが歪んで見えた。補正をかけようとしても一向にかかる気配がないから焦った。身体が動かなくなってからじゃ遅いから急いで教室をあとにした。ついこの間のこと。


あれもこれもさらけ出されてすべてを如実に解釈できる世界なら楽だろうなと思う。だけど人間の性質上そんなものは存在できるはずもないし、そもそもそんな世界は怖いしつまらないだろうからあってほしくない。あってほしくはないけど、ここまで欺瞞に塗れた汚い世界じゃなくたっていいでしょ?真っ白も嫌だけど真っ黒はもっと嫌、何も見えない。
真実が隠されてるのと真実に悪意に満ちた虚構が混ざってるのとでは大きく違う。くるしまずに生きるには自分のフィルターをある程度黒に染めなきゃいけない。これまで怠けてきた分も黒く染めないといけない。時間をかけてゆっくり、灰色を経て黒にするべきところを、白紙に一気に黒をぶちまけたんじゃそりゃついていけないね、見通せなかった自分のせい。



レンズは少し曇ってるくらいがちょうどいい。自身に対する欺瞞は必ずしも悪ではない。自分の目を自分でごまかすことが下手くそなのに高い解像度で世界を見つめて、それでいて何もできないから毎度深い虚無におそわれる。見たくないものもそのまんま見るのが解釈を与える上で一番いい方法だと思って生きてきたけど、そろそろ見方を変えるなり自身に色をつけるなりしないとついていけなくて終止符を打つしかなくなる。
精神の死への傾倒は肉体の死への傾倒を招くからよくない、いつだって隣合わせの死にそんなに憧れてるわけじゃない。それでも現状を打開する策を見つけられてないから生きることがくるしくなる。死なない程度に云々とはそういうこと。



今更かなしいと叫ぶにはあまりにすべてが遅すぎたかな、そうじゃないと信じて無色透明なまま、まあこんなもんかなってある程度妥協して現実と向き合えるようになれたら。



最適なピクセル数はいくつだ?

raison d'etre

何かのおかげでいつもより素直に、そしていい意味で感情的に記述できる気がする。一方で変なことを書きそうでもある。だからいつものように「曖昧な論考になることをどうか赦してほしい」とか「煩雑な記述になるかもしれないことをお赦し願いたい」とか、今日も今日とてはじめに言い逃れの文句を垂れそうになるのだけど、それは逃げであって、ブログというカタチでかきかきするなら自分の紡いだことばに対してくらい、それなりの責任を持てともう一人の自分が叱る。



生きることは難しい。それでもあたりまえのようにして時間は過ぎていくし、あたりまえのようにして自分が存在する。人生が舗装された直線道路だったならどんなに生きやすかったかな、そう考える一方でそれだとあまりにも味気なくて、生に対する執着なんてこれっぽっちもなくて、今よりも生きる意味がわからなくて、それはそれでくるしんで今頃もう死んでたかもなあ。

人生は敷かれたレールだけど、たぶんこれだと解釈としては不十分。実際はそんな生やさしいものじゃなくてもっといろんな人の血がにじんだ、たくさんの人たちに踏み固められてきた道。この曲がりくねった道をああだこうだ無駄なことも有益なことも試行錯誤しながら進んでいく。やさしい世界を求めて道に沿って歩いても、道を無視して己の信念を貫いて真っ直ぐ歩いても、どっちの生き方でも障壁にぶち当たるし正解はない。やさしい世界を求めれば相対的によわい自分を認めざるを得なくなって自己否定が加速するし、道を完全に無視してずんずん進んでいけばぬかるみにはまったり何だりで数多の困難をいかにクリアするかの障害物競走になる。きつい。

人間には「きつい」とか「つらい」とかそういう一般的に負とされる感情があらかじめプログラムされてることを考えれば、そもそも楽に生きようとすること自体が間違っているのかもしれないしすこしでもやさしい世界に生きようなんて傲慢な考え方なのかもしれないなあとちょっと思った。だけどよーいどん!の位置が人それぞれ違うのだから、生まれた環境や自分の性質を憎むのはあたりまえの感情だし、憎しみの刃がときに外に向かうかもしれないことも本当はゆるされて然るべき世界だよ。幸福論についてはまだまだ議論の余地がいっぱい残っててなんとも言い難いところはあるけれど、"誰か"のしあわせについて思いを巡らせたとき、論の結びはぐるっとまわってなんとやら、明日は今日よりもやさしい世界になっていますようにと幾度となく願ってきたしそれはこれからも変わらない。

色があってないようで、ぶれぶれな自分が今日もいろんな色に染まる。それは何者にもなれる可能性を含んでるとも言えるけど、自分に軸がなくて芯がなくてただ惰性で生きてるだけのがらくたとも言える。生きている限り他人のフィルターを何度も通ることになるのだから染まることはそろそろ覚悟しないといけないんだけど、求められた色に順応しようとすれば自分がわからなくなる。ぶれぶれな自分がやっぱり嫌じゃ。きゃーって感じ。



目に見えるものだけの世界現象。

生きるか死ぬか

 多忙のためにここのところ全くと言っていいほど思考をカタチにしていなかった。このブログの更新も1年ぶりである。そのため抽象的かつ煩雑な記述になるかもしれないことをお赦し願いたい。


 何となく暮らして、何となく過ごして、何となく生きる。特に何かしたいわけではない、或いはしたいけれどする気力がない、する余裕がない。何やかんやでその日のでゅてぃーをこなして1日が終わる、明日がくる。この無限ループにピリオドを打ちたくなる日が梅雨時は増える、どうしてかな、陰鬱な気分の助長される幅が大きくなる。己の弱さを天気のせいにはしたくないけれど、こういう環境因子に気分が左右されることは割とよくある話だと思う。降ってきた爆弾の量が同じでも、あるときは耐えられたりまた別なときは耐えられなかったりする。
弱さを認めることは強くなる道への第一歩、ここまではクリアできている気がするけれど、次の段階への踏み出し方がわからないからただ只管にレールの上を歩き続けている。そもそも道標を見つけられていないから状況はあまりよろしくない。気散じに寄り道多めの散歩を薬としていた時期もあったけれど、そこまでの時間の猶予が今はない。早めの対策が急がれる、さてどうしよう。


 生きるか死ぬかの極論の世界で、生か死かのラインを行ったり来たりしているような曖昧な感覚で生きている。領域がはっきり分かれているはずなのに、気分は死んだような、生きているような、どっちともつかない微妙な感覚である。精神が死に傾き始めるとき、肉体もまた死へと傾き始める。よろしくない兆候が顔を出し始めているので、健全な精神の緩やかな回帰を強く望み、またそのための策を講じることがわたしの喫緊の課題である。