tractatus

思考の垂れ流し

信じるべき存在

 旧くから地球上の彼方此方で問われてきた"霊の存在を肯定するか否か"について綴ってみようと思う.
この類のことを記述すると変な人認定されそうなので長い間公の場での主張を避けてきたが,周囲の人の関心度や,また私自身の興味の度合いも非常に高い題目であったので変な人であることがバレない程度に変な人だと思われない程度に述べることにする.




 "幽霊/化物を見た"なんて話を科学万能主義者にしようものなら「君はそんな不確かなものを信じているのか,非科学的だなあ,情けない,馬鹿げている」などと言われ冷笑されそうだ.確かに存在を示す明確な根拠を示すことはとても厳しい.しかし"存在しない"ことを証明するに十分な材料もない故,この場合は答を与えないことが実状をよく理解している者の結論だと思う.
…と言ったところで話が終わってしまうと生産性に乏しい挙げ句とても詰まらないのでもう少し掘り下げてみる.
わたしの経験では,"いる"と仮定しなければ説明がつかない出来事が幾つもあった.誰もいないのに葬儀場の自動ドアが開閉したり,散歩をしている途中に小道を見つけ,何か嫌な空気を感じて引き返し後で確認するとそこは元々……こういう妙な体験というのはなかったことにすれば済む話なのだが,自分の性分のせいか気になって仕方がない.
霊なんてそんなもの,いる訳ないでしょう,と思っていた時期がわたしにもあった.けれど妙な場面に直面したとき,存在を肯定すると納得のいくことが多いことに気づいてからは思考のベクトルを180度転換した.


 実体を示すことが極めて困難な霊やそれに似通った存在についての話は,言語が違えど文化が違えど,古今東西様々な形で伝え継がれているものである.(人類史や文化史などの知識を多く持ち得ているならばより詳しい議論展開が可能となるだろうが,生憎わたしは素人なので曖昧な論考になることをどうか赦してほしい.)
幽霊や化物といった存在が全くもって認められないならば,そのような伝聞が現在に至るまでの長い期間,途絶えることなく伝え継がれるなど不可能だっただろうと考える."どうやら本当らしい"というある程度の確からしさがないと噂が伝承として機能することは難しいからだ.
そう考えると存在の確実性は少々増すのではないだろうか.確たる論拠がなくとも割と有意義な推測ができるように思う.


 霊と同じく抽象的な存在に分類できる神というものは広く人々の信仰の対象となってきた.
憲法で規定されている通り個々の信仰は自由である.誰が何の存在を信じようと構わないし,己の範疇に他人が割り込んで勝手にその人の信仰対象に蓋をするような真似は社会的な環境因子として実害を伴わない限り到底赦されるべきものではない.

 信じるか信じないかはあなた次第───聞き覚えのある台詞だが今回の場合まさにそうで,ぶっちゃけどこの誰が霊の存在を認めようと認めまいと裁かれないし殺されもしない.だが人生における幸福について考えたとき,一度でも存在の肯定を試みた人の方が多様な価値観の下,より豊かな人生を送れるのではないだろうか.答を与えられないなら"いる"と仮定してあれこれ思いを巡らせた方が日々をより愉しいものとして過ごせるのではないだろうか.


 
 全く異なる視点から物事を捉えると何気ない日常も変わって見える.思考のチャンネルを幅広く持つことをオススメしたい.