tractatus

思考の垂れ流し

人生の選択

 人の数だけ物語がある。1ミリとも違わない、他人と全く同じレールの上を歩むなど有り得ない、はず。

 
 今日は何を着ようか、何を食べようか、選択の連続である。その1つ1つの選択が時の流れとして形をつくり、やがて"死"という人生の帰結を我々にもたらすのである。
我々がどれくらい生き、どのように暮らし、どれくらいの満足感を得てこの世を去るのか。
そんなものは選べないと多くの人は言うだろう。確かに人ひとりでどうこう出来ないこともあるが、しかし無意識のうちに選んでいるのもまた事実だ。
1つの決定がその先の命運を左右するというのはよくある話で、もう取り返しがつかない、時間は戻らない、あの時あれこれすれば良かったと後悔し、苦く切ない経験をしたことのある人はたくさんいるだろう。


 人生はやり直しのできない壮大なゲームである。だからこそ"生まれ変わったら何になりたい"とか"次の人生では裕福な生活を送りたい"とか、実体を示すことの困難な輪廻を信じ、ある人はこれに縋り、現世に生きることの難しさを乗り越えようとする。

 人生は選択の連続である。"選ぶ"という行為は、我々が考えているよりもずっと重要なものなのかもしれない。

天使と悪魔

 己の内部に秘めた陰と陽。最近は陰の割合が知らず知らずのうちに多くなってきているように思う。
ちょっとした生活の乱れが体調不良へと繋がってしまう。前はそんなことこれっぽっちも有りやしなかったのに。鬼の霍乱、かしら。


 
 心の安寧を図り、何から何まで披瀝したなら少しは改善するだろうか。いいや、リスクが大き過ぎる。何せ世の中欺瞞だらけなのだから。総て曝け出したところでどこをどう弄られこねくり回されるのか見当がつかない。そんなもの沈着冷静に一瞥くれてやればいいって?そうしたら内なる陰が更に増幅して眞正の悪魔になってしまいそう。
結局は暗澹たる気持ちで、憮然として溜め息をつくのがオチだと思うのよ、悲観的なのはわかっているつもり、少なくとも頭では。

 
 そんなこんなで気散じに散歩をすることを薬としているこの頃。初夏の夕暮れ時に見晴らしの良い場所で感じる風は、心の澱を洗い流し五臓六腑をも心地良くしてくれるほど爽快である。風によって余計なものが取り除かれ、自身の抱え持つ明暗が可視化されたとき、それぞれの営みや関わり合いを垣間見ることができる。
大仰だと云われそうだが、これで何とか統制を取れているのだから是非とも習慣にしたい。

 
 
 道標がないなら自分で作ればいい。内なる天使の中に悪魔を見、悪魔の中に天使を見る。自分の傷を自らの手で深くし覗き込むようなこの行為が、騙し絵を探索する楽しみのように心身に働きかけ、健全な精神が緩やかに回帰することを強く望む。

非日常を求めて

 その日のでゅてぃーに追われる中、非日常に浸りたいと思うことがある。やるべきことから逃れ、非日常の世界へ連れ出してほしいと誰に宛てるでもなく口にすることがある。
 
 知見の広がりというのはとても貴重なファクターで、人生の豊かさの観点から見ると小中高大での束縛的な勉学よりも遥かに、吸収され得るものを多分に含んでいるのだろうと思う。無論"愉しむ"ためには最低限の知識が必要となってくるわけだが、それもまた幼少期からの"非日常"の積み重ねにより自然と備わってゆく事項なのかもしれない。
 
 非日常に身を置くためには時間と金がかかる。自分が大人となれるかどうか怪しいが、仮にクリアできたとして、今度は十分な時間が残されていない状態にあるかもしれない。寿命が尽きそうになり、自由に身体を動かせなくなる、そんな時期がやってくる前に色々経験しておきたい。時間は待ってくれないからこそ自分から取りに行く姿勢を維持したい。
 
 人はなぜ非日常を求め続けるのか、この答を見つけられる日がありますように。