tractatus

思考の垂れ流し

raison d'etre

何かのおかげでいつもより素直に、そしていい意味で感情的に記述できる気がする。一方で変なことを書きそうでもある。だからいつものように「曖昧な論考になることをどうか赦してほしい」とか「煩雑な記述になるかもしれないことをお赦し願いたい」とか、今日も今日とてはじめに言い逃れの文句を垂れそうになるのだけど、それは逃げであって、ブログというカタチでかきかきするなら自分の紡いだことばに対してくらい、それなりの責任を持てともう一人の自分が叱る。



生きることは難しい。それでもあたりまえのようにして時間は過ぎていくし、あたりまえのようにして自分が存在する。人生が舗装された直線道路だったならどんなに生きやすかったかな、そう考える一方でそれだとあまりにも味気なくて、生に対する執着なんてこれっぽっちもなくて、今よりも生きる意味がわからなくて、それはそれでくるしんで今頃もう死んでたかもなあ。

人生は敷かれたレールだけど、たぶんこれだと解釈としては不十分。実際はそんな生やさしいものじゃなくてもっといろんな人の血がにじんだ、たくさんの人たちに踏み固められてきた道。この曲がりくねった道をああだこうだ無駄なことも有益なことも試行錯誤しながら進んでいく。やさしい世界を求めて道に沿って歩いても、道を無視して己の信念を貫いて真っ直ぐ歩いても、どっちの生き方でも障壁にぶち当たるし正解はない。やさしい世界を求めれば相対的によわい自分を認めざるを得なくなって自己否定が加速するし、道を完全に無視してずんずん進んでいけばぬかるみにはまったり何だりで数多の困難をいかにクリアするかの障害物競走になる。きつい。

人間には「きつい」とか「つらい」とかそういう一般的に負とされる感情があらかじめプログラムされてることを考えれば、そもそも楽に生きようとすること自体が間違っているのかもしれないしすこしでもやさしい世界に生きようなんて傲慢な考え方なのかもしれないなあとちょっと思った。だけどよーいどん!の位置が人それぞれ違うのだから、生まれた環境や自分の性質を憎むのはあたりまえの感情だし、憎しみの刃がときに外に向かうかもしれないことも本当はゆるされて然るべき世界だよ。幸福論についてはまだまだ議論の余地がいっぱい残っててなんとも言い難いところはあるけれど、"誰か"のしあわせについて思いを巡らせたとき、論の結びはぐるっとまわってなんとやら、明日は今日よりもやさしい世界になっていますようにと幾度となく願ってきたしそれはこれからも変わらない。

色があってないようで、ぶれぶれな自分が今日もいろんな色に染まる。それは何者にもなれる可能性を含んでるとも言えるけど、自分に軸がなくて芯がなくてただ惰性で生きてるだけのがらくたとも言える。生きている限り他人のフィルターを何度も通ることになるのだから染まることはそろそろ覚悟しないといけないんだけど、求められた色に順応しようとすれば自分がわからなくなる。ぶれぶれな自分がやっぱり嫌じゃ。きゃーって感じ。



目に見えるものだけの世界現象。