tractatus

思考の垂れ流し

生きるか死ぬか

 多忙のためにここのところ全くと言っていいほど思考をカタチにしていなかった。このブログの更新も1年ぶりである。そのため抽象的かつ煩雑な記述になるかもしれないことをお赦し願いたい。


 何となく暮らして、何となく過ごして、何となく生きる。特に何かしたいわけではない、或いはしたいけれどする気力がない、する余裕がない。何やかんやでその日のでゅてぃーをこなして1日が終わる、明日がくる。この無限ループにピリオドを打ちたくなる日が梅雨時は増える、どうしてかな、陰鬱な気分の助長される幅が大きくなる。己の弱さを天気のせいにはしたくないけれど、こういう環境因子に気分が左右されることは割とよくある話だと思う。降ってきた爆弾の量が同じでも、あるときは耐えられたりまた別なときは耐えられなかったりする。
弱さを認めることは強くなる道への第一歩、ここまではクリアできている気がするけれど、次の段階への踏み出し方がわからないからただ只管にレールの上を歩き続けている。そもそも道標を見つけられていないから状況はあまりよろしくない。気散じに寄り道多めの散歩を薬としていた時期もあったけれど、そこまでの時間の猶予が今はない。早めの対策が急がれる、さてどうしよう。


 生きるか死ぬかの極論の世界で、生か死かのラインを行ったり来たりしているような曖昧な感覚で生きている。領域がはっきり分かれているはずなのに、気分は死んだような、生きているような、どっちともつかない微妙な感覚である。精神が死に傾き始めるとき、肉体もまた死へと傾き始める。よろしくない兆候が顔を出し始めているので、健全な精神の緩やかな回帰を強く望み、またそのための策を講じることがわたしの喫緊の課題である。